註1
武蔵の生年には諸説あるので、正確なことは不明。一説に「六十二年の生涯で六十数度真剣勝負をし、一回も負けなかった」と言われる。主なものとして、二十九歳での佐々木小次郎との試合。三十二歳で大阪夏の陣に西軍として参加。三十四歳で東軍流三宅軍兵衛との試合などがあげられる。しかしその最後の三十四歳の試合以降は真剣勝負をしていない。五十歳代にも試合をなしたとの伝承もあるが、そのときには相手を殺傷するには至っていないとされる。晩年には「独行道」「五輪書」等兵法書を記し、その精神的な陶冶をなしたと言える。註2
殺人刀の解釈も一つではなく、柳生新陰流では、「構えあるものを殺人刀、構えなきものを活人剣と称する」といった解説もなされる。現代剣道でも重要な心的境地を教える「懸待一致」の教えも、同流「殺人刀」の中に説かれている。上記文脈では、「技量を以て相手を制す」といった意味で使用している。註3
「敵の好むところによって勝ちを得る」のが極意であるが、この敵の好む状況を作り出す手だてとして、ほとんど唯一絶対といえる手段が、敵に我命を捧げるということに他ならない。一例として「三学円之太刀」の一本目「一刀両段」では、まず使太刀が車(八相に似ている)に構える。敵に対して無防備に全身を晒すため、自己を生死の狭間へ置く勇気と、自己のすべてを捧げる心が要求される。柳生十兵衛三厳は著作「月之抄」でこの心境を「棒心」と説明している。註4
一刀流極意 一刀流兵法本目録 (十四) 「まんじ・殺人刀・活人剣」:卍は元来は西域の万の字であり、仏はこれを吉祥万徳の相として胸臆に描いた。一刀流の教えによるまんじは常のまんじと違いさるまんじという。まんじは一見四角に見えるが、これは丸く旋る心のものである。十字に止めずにまんじにまわす所である。角に行かず円に万事をまろばしゆき、折り返し折り返しひかえず偏らずまんじの曲に叶つてゆく。まんじの働らきで上から「殺人刀」と切り、横から「活人剣」と切る時にまんじの意を用いるのが秘事である。竪のものを横に、横のものを竪に受けたのみでは十字であつて万字ではない。これを旋らし万字に引き受けると敵の刀が死し、吾が刀は活きる。組太刀の技については「裏切」「合匁」などに学ぶべきである。「殺人刀」「活人剣」をまんじの働らきによつて掌中に勝を司ることをこの極意で教えるのである。合掌の心、手を合わせて拜む体を妙と称し、その剣を妙剣と呼び、その形は太極の円に化育されるのである。太刀道を修め千辛万苦をなめこの教が心身に徹すると惣身に妙法備わり吉祥万徳の光が自ら発するのである。註5
一例として、小野派一刀流 「高上極意五点」の一、妙剣は「無形、無無形、無我、無敵、妙者無相也」とし、仕方は隠剣(脇構え)に進み、打方に自分の左肩を隙いて見せる。つまり我が命を相手に投げ出しているのである。「もし死なば、多くの実を結ぶべし。己が生命を愛する者は、これを失う」の心境を求めているのである。人はこの境地にはなかなか至れない。そこが修行である。自分をこの境地に至らしめ、さらに敵が「己が生命を愛する」レベルにあらば、敵はその好むところに従って、必ず、肩越しに切り込んでくる。つまり、敵の意志の確定がある。そうなれば「後の先」で必勝を上げることができるのである。しかしその実は「先々の先」の勝ちである。従ってまず始めに心のなかで養うべき「先」とは「愛と和」に他ならない。打方である師は仕方をその心境に導く指導をなさねばならない。剣道の究極の姿は、竹刀を交える双方がこの境地に至ることである。また仮に双方この境地に至れば、只々静寂の中にお互いの剣先の触れ合いを通して、心の対話を楽しむ剣道となる。註6
内村鑑三全集24巻 「武士道と基督教」 大正7年1月10日「聖書之研究」210号