孟子 |
無想剣 万物万事悉く実相と無相とがある。実相は人の五官に伝わる色、音、香、味、触覚で覚る。無相は五官に伝わらないその奥に存する能動の淵源である。人はこうしようと思うと、その心の通り体の所作に現れ、念慮が形影に顕われてくる。この外に出た姿を実相という。実相を出す以前の本源は無相である。敵の実を見てその無相を明察し、わが実相を敵に知らしめないことを習熟するのが執行の目標である。これに達するとわれはたくまずして妙技が自然に流露して用に叶うものである。(略)無我であると無敵である。心相が動かずに無碍自在、千変万化に働く太刀を無相剣という。(略)無相剣の技は無左右ともなり、至極しては無双ともなり、心の相無くして無想ともなり、ついに夢想となるのである。 『一刀流極意』(笹森順造著) より |
妙剣 妙剣は「木」に象(かた)どる。妙剣の技は極めて勝れた巧みなものであり、形も見えず心も現れず説く言葉も無く、無形になろうとの考えもなく、太刀や技の有る思いもなく全く無想であって、万事空なる所で木の芯がのびるようにのびのびした調子で勝を完了する執行である。 『一刀流極意』(笹森順造著) より |
此の身は、虚空(こくう)より化生(けしょう)するに非(あら)ず、大地より変現(へんげん)するに非ず、必ず四(し)恩(おん)の徳に資(たす)けられて、是(そ)の五(ご)陰(おん)の体(てい)を保つ
『続編照発揮性霊集補闕抄』巻第八 なお範士の関防印は「知足(たるをしる)」 知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦意(またこころ)に称(かな)わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し
『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。 『聖書』コリント人への第二の手紙 12章9節 |
人一能之、己百之、人十能之、己千之、果能此道矣、惟雖必明、雖柔必強 他人が一たびするときは、自分は百たびし、他人が十たびするときは、自分は千たびする。例えば他人が一たび書物を読み通したならば、自分は必ず百遍これを読むというようにする。果たしてかくのごとく努力することができるならば、たとえ愚なる者もよく善を択ぶことができて必ず明かとなり、柔なる者もよく固く執ることができて必ず強となる。 『中庸』第二十章 |
一番初めの段階は、その道に志す、「@志道」という事です。その道に志す、つまり入って見よう、求めて見ようと思いを向ける事です。そこで初めて「A入門」という事になります。そして入門した結果しばらくして、その道の最初の部分、「B初心」が分かり身についてきます。初心の段階が過ぎた次の段階が「C未熟」です。良く謙遜して未熟者と言いますが、これでいくとそんな謙遜でもないわけです。未熟の上が「D熟練」です。熟練の上が「E上達」です。大分上達したと言いますが、上達は熟練より上なのです。その上が「F精妙」あるいは、「絶妙」なのです。熟練して、上達してもまだ不十分で、その業(わざ)は精妙にならなければならないのです。ですから、絶妙あるいは精妙というのは確かに褒(ほ)め言葉ですが、実はもう一つその上があってそれを「G円満」とよんでいます。 笹森宗家礼拝メッセージより |
昔、中国では天地の数(さだめ)は十二万九千六百年を一元とし、これを十二に分けて一会と呼びました。一期とは人の一生です。悠久の天地の時間の中で、人の一生は闇の中の一瞬の稲妻にも似ています。この短い人の一生の時間は一瞬一瞬過ぎ去って戻ってくることはありません。ならばこそ、この一瞬の時間を大切に、毎日を生きていきたいと思います。 |
剣道(人生)は高き山をば登るごと、一山越せば前に又山 岩立範士講話より |